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【三世沢村宗十郎の大岸蔵人】 【三世沢村宗十郎の大岸蔵人】 写楽の第一期、二人立半身像を描いた五枚のうちの最高傑作と誉れ高い作品です。

狂言は寛政六年五月、桐座上演の「敵討乗合話」です。

他の半身二人立の絵がそうであるように、これも二人の人物の対比の妙をみせています。

和田右衛門の痩せた顔に対して此蔵の肥り肉、和田右衛門の下がり眉に此蔵の上がり眉、和田右衛門の丸い眼に此蔵の細い眼、和田右衛門の鷲っ鼻に此蔵の獅子っ鼻、和田右衛門の開いた口に此蔵の結んだ口、これらが実に面白いコントラストになり、その巧みさによってこの絵は生き生きとしています。

色彩にも対照的なものをみせ、和田右衛門の濃い色彩に対し、此蔵は白の浴衣。

写楽はこの絵を描くことに自信と興味を感じ、喜びを感じながら筆をとったのではないでしょうか。

この二人の役者は、ともに当時第三流に属する下級役者で役もごく端役でした。

にもかかわらず、写楽はこの二人を取り上げ、素晴らしい作品を作り上げました。

下級役者を錦絵にするようなことは他の絵師ではないことで、ここに写楽の芸術家として他におかされない自信があったと思わされます。

役者をよりリアルに表現した写楽ならではの表情です 胸元にひろげられた大きな金扇が画のアクセントになっています。

役者三世沢村宗十郎を表す家紋は「丸にいの字」です。

東洲斎写楽を見出したのは,元祖出版プロデューサー蔦屋重三郎でした。

東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく) 生没年不詳 寛政6年(1794)、浮世絵界に彗星のように登場し、わずか10ヶ月の作家活動の間に140数点もの浮世絵を世に送り出すと忽然と姿を消しました。

写楽は大判のしかも背景を高価な黒雲母摺という尋常ならぬデビューを果たしました。

版元の蔦屋重三郎は、歌麿が重三郎の専属を離れたのちに大々的に写楽を売り出しましたが、次第に大判が少なくなっていきます。

その理由として、写楽の人気役者であろうと美化せずに、ありのままを描きとる筆致は、役者ファンをはじめ当時の人々の好みに合わなかったからなのかもしれません。

しかし、どれも躍動感にあふれた役者絵は見る者に強烈なインパクトを与え、海外でも高い評価を得ています 東洲斎写楽選 東洲斎写楽 東洲斎写楽 写楽の作品が重んじられる理由のひとつに、その遺品が少ないということにあります。

また残念ながら写楽の芸術を理解し、認識したのは日本ではなく海外が先でした。

日本人が彼の作品を認めない間に、多くの作品は海外に流れ、その芸術が絶賛されたのです。

昭和18年、海外から持ち帰った松方コレクションが博物館に入り、その数も増した程度であり、こうした限られた少数の作品を復刻したのがこの40作品で、いずれも写楽の大傑作です。

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